うつくしい劇伴

そんなこといわないでよ

怒りについて

 

喜怒哀楽の怒が欠けていると言ってもいいくらい怒らない私だけど、怒りとは恥だと思っている節があるからかもしれない。もちろんイライラすることはある。ただ怒りというエネルギーを爆発させて感情をむき出しにすることがあまり得意ではない。

怒っている、これは自分が未熟だからじゃないかとか、本当に怒るほどのことなのだろうかとか謎に冷静になり、電車を乗り過ごすように怒りの駅を通過してしまう。もし怒りの駅で降りて、間違いだったら恥ずかしい。まあ、自分が抱いた感情なんだから間違いとかはなくて、自分が正解なんだけど。認めたくない節がある。

「ちゃんと怒る」をやらなかったせいで何度も後からもやもやしてきた。人が怒っているのを見ると、ああやって感情を露わにできて羨ましい。信念があるからこそだと思う。その一方で、ばつが悪いというか、うわあなんか怒ってるやだなぁと冷めた気持ちにもなる。

インターネットでは怒っている人をたくさん見かける。なにより怒っている人に対して、「顔真っ赤じゃんw」とか煽る人もたくさんいる。こういう煽る人たちがいるから、怒ったら、自分の本当の気持ちを爆発させたら笑われるかも、と恥ずかしくなるんだと思う。そんな防衛本能のような心配をも飛び越した信念を持ちたいし、そこに生まれた感情は怒りという形であっても大事にしたい。

怒りは本当にエネルギーを使う。プンスカしたら疲れる。私は怒りのエネルギーを諦めや悲しみに変換し、省エネモードで生きていくことを覚えた。実のところ、変換したところで省エネにはなっていない。むしろ一時的にドカンと怒りエネルギーを放出して、スイッチオフするほうがいいだろう、絶対に。省エネしようとすればするほど自分の感情を抑えて、自己否定にもなっていた。

もっともっと、怒りたい。怒りを出すのが苦手なのは、自己主張が苦手なことに繋がっている。「うわ、自分いま怒ってる、こんなことも許せないのかダサ」ではなく、自分が「許せない」と思ったことを感情として、主張としてちゃんと認めなければ。

 

 

おわり